PoBtanのブログ

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ベーシックインカムには賛成するものです

こんにちは。少し社会的なものも書きたいと思うので、最近考えているベーシックインカム(BI)について書きたいと思います。

まず、前提としてぼくはBIには絶対的に賛成しますし、導入するべきと考えるものです。BIは正しく導入されれば、絶対に国民を幸せにし、幸福度は上がります。これは断言します。

それはお金を貰えば嬉しいだろうよ、という話ではありません。ぼくは社会学者ではありませんが、単にお金をもらう→幸せになるといったことではないと思います。

なぜそう考えるかというと、ぼくはささやかながら不労所得というようなものを持っており、住むところもあります、何なら実家も近くにあり、服はもちろん持っています。つまりいまのところ衣食住には困らないという状況(遊んで暮らすわけというわけには行きませんが)であるのですが、かつては圧倒的に困っていたこともあり、2、3日後に食べるものすら怪しい、住むところもどうなるか、ライフラインもやばい。ということがありました。

そうなるとどうなるかというと、ひとは病みます、絶対的、圧倒的に病みます。世界が自分を排除しようとしているような気分になり、世界に愛されていない、救われていないと絶望的な気持ちになちます。その時はまだ何日後かにお金が入る予定があったので、まだましでしたが、それもないとなるともう終わりです、ホームレスになるか、役所に駆け込むしかありません。それは極めてシンプルな恐怖そのものでした。絶対にもうそういう状況にはなりたくないと思います。衣食住最低限な生活を保証することは憲法25条を持ち出すまでもなく、国家の義務だと思います。

生活保護があるでしょ。という意見もありますが、公的扶助は圧倒的に足りておりません。生活保護はハードルが高すぎるし、いろいろな制限もあります。最低限、それも福祉の目の中で生きていけるというだけです。そんな中、一念発起してそこから抜け出そう。と思える人間はそれほど多くはありません。それを生活保護があるから大丈夫というのは持つものの視点で、パンがなければ〜と言っているのと同じです。

何も持たない、頼る寄す処もないとなれば、社会の中からこぼれ落ちるしかなく、それは不幸を呼び、やがて持てるものを脅かすようになります。それにこの時代、だれが持っているものを決して失わない、ということがあるでしょうか。持てるものが持たざるものを見捨てないということは、自分が誰からも見捨てられないということです。

最低限の生活が保証されるからこそひとは頑張って生きよう、幸せになろうという気持ちを持てるのです。それがない社会に幸せはありません。幸福度も決して上がりません。

そういうことをもっと真剣に考えてもらいたいと切に願いますが、残念ながらこの日本では絶望的です。社会保障を一律何万円かにする、というひとがいたらしいですが、見ているものも目指している方向もまったくぼくに言わせれば見当違いで、別の言語を話しているかのようです。暗澹たる気持ちになります。

いまや年金だってぼく等の世代ではもらえるかどうかわかりません、現状ではまずもらえないでしょう。それを少子高齢化のせいとか、そういうことにするのは完全に責任放棄以外の何物でもありません。確かに財政は危機的であるのでしょうし、70歳だか75歳だかまで働けというのなら納得できれば働ければ働くのに吝かではありませんが、リタイアした際には、きちんと面倒を見てくれるのが当然だと思います。思いませんか?

一体どうしてこんな事になったのだろうかということですが、コロナ禍で圧倒的なパラダイム・シフトが起きないだろうかと思う次第です、ウィズコロナ時代に一番期待していることです。