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インターネット30年史!インターネット、スマホ、SNS、AIは人類を幸福にするのか?

こんにちは、ちょっと早いですがなんとなく今年の総括みたいなことです。

ふと思ったのですが来年は2025年ということで、Y2K、いわゆるミレニアム、2000年問題(何だったんでしょうね?)から4半世紀ですね。早いものです。なんかつい昨日のことのようにさえ思えてしまします。

この間何があったかというとまず9.11があり、3.11があり、コロナ禍とウクライナ戦争、ガザ紛争とまあ順調に?10年周期くらいででかい出来事が起こっており、それらは未だ世界史に爪痕として、または現在進行形で残っているという、世界、社会とは本当に簡単にはいかないものだという認識を新たにさせられます。我々はまさに歴史を生きて、作っているのだという認識は確かに持つべきでしょう。

 

しかし日本に生きて幸いにも平和に、普通に生活している分には1番の大きな出来事としてはインターネット、スマホの普及でしょう。

ぼくが初めてインターネットというものに触れたのは1998年ごろ、Windows98だか2000だかの頃でして、インターネット黎明期の大多数の人々の例に漏れず、NTTのテレホーダイに加入して、23時になるとまず、ピーヒョロローという音と共にネットを徘徊しておりました。

田舎出身の身にして東京に出てきて、さらにインターネットというものに触れたぼくはもうそれはびっくり仰天して、「ワオ!これはすげえ!これから世界は変わる!人類の進化だ!全く新しい世界がこれからはじまる!」と思ったわけです。

しかして25年を経た今、世界は変わったか?世界は1つになったか?となるとこれは全く期待外れだったと言わざるを得ないでしょう。ガンダムの世界と違い、世界も人類もそう簡単には進化しないのです。

インターネットは確かに生活を便利にはしました。これは間違いのないことです。しかし世界を「良く」したか?については疑問符がつきます。ガンダムと絡めて富野由悠季さんの言葉を引用すれば「通販を便利にしただけ。」ということになります。ぼくに付け加えさせていただけるとするなら小さな声で隠して言いますけれども

「通販とオナニーを便利にしただけ」

ということになります。どうしてこんなことになったのか?

 

簡単に日本に於けるインターネットの歴史を振り返りますとまずニフティサーブのインターネット通信の時代があり、そこから個人HPの流行、2ちゃんねるをはじめとするBBSの隆盛、そこから個人ブログの流行、所謂SNSの時代、GAFAの登場、などがあり、決定的だったのがスマートフォンの登場です。

スティーブ・ジョブズiPhoneを発明しておきながら自分はそれを使わず、娘にも薦めなかったという話を聞いたことがありますけれども、それがもし本当であるならば、さすがはジョブズ。慧眼であったと言わざるを得ないでしょう、別に膵癌とかけているわけではないですが。

 

現在のインターネットの状況を見ますとまずはSNSの時代と言えるでしょう。ほとんど全ての人が世界に発信できるデバイスを得たことでそれはどんな状況を生んでいるのかというとこれは少しばかり暗澹たる気持ちにさせられます。

前にも書いたようにぼくは社会のあり方に良いも悪いもないと考えるものですし、インターネット時代の社会もまた過渡期であり、これからどう進化するか、どういう価値観を生むかはまだ未知のものだとは思っていますが、いまのSNS社会は全く悲惨で、歪で、インターネットが理想とするものとは対極にあると言って差し替えないと思います。

 

人間性というものを一つの指標として考えるならば、人々は安易に人間性というものをSNSに委ねてしまっているという感想を持ちます。簡単にいうならSNS依存ということですが、SNSを一つの大きな価値観として持ち、SNSの価値観に人間性を一部あるいは殆ど委ねている、具体的には思考停止しているということですね。それは理論的には真っ当なことにも思えます。なぜなら自分もまたSNSの一部であり、それを形作っている物のひとつだからです。つまりはSNSは自分を含めた集合知の大勢であると。だからそれは「正しい」のだという感覚が少なからずあるのではないかという気がしてならないのです。

しかし今現在という観点からすると、それはやはり危険なことと言えるでしょう。宗教と置き換えてもいいですが、人間性の一部を何かに預けるということがどういう結果を生むかということは歴史が証明しています。

具体的にどういうことが起こっているのかということを考えるとすると

・安易な自己肯定或いは自己批判

・所謂インフルエンサーインフルエンサーってなんだ?)への盲目的な追従

・無意味な優越感・劣等感の過剰な反応

・マイノリティーへの不自然な肯定、あるいは否定

などが挙げられるかと思います。これには所謂オールドメディアと呼ばれる新聞、TV、雑誌などの不振なども関係しているでしょう。これは社会として、どこにお金がたくさんかかっているかってことでもあるので、SNSに関係なく、社会として考えないといけない問題ではないかと思います。

 

勘違いして頂きたくないのですが、ぼくはそういう方向に行くのならば別にそっち方向に突っ走っていったっていいと思います。人間性という言葉の定義が変わったって別に構わないと思います。しかし今のところそこまで人間は進化していないというか、今そっち方向に行くのはやや危険ではないかということをぼんやり思っているだけです。ニュータイプがそこから生れる可能性も全く否定しません。社会とはなるようになるだけです。

 

ただ今現在では今の人間性みたいなものを持っておくことも、あるいは知っておくことも大事で、それにはやっぱり古典の小説や映画に親しむとか、何でもいいですけれども自分のアイディンティティを知っておくこととかが大事になるのではないかと考えているのです。急にSNSやインターネットが規制されて、大事にしていたコンテンツが一切無くなると言う可能性だってなくはないのです。ある程度自分自身の人間性を担保しておくことは現代における一つのリスクヘッジです。

 

今やインターネットはSNSから生成AIの時代へとシフトしつつあります。SNSがすぐ衰退するかというとそんな事もないでしょうし、これからどうなるか、人類は進化するのか、人間性とはどうなるのか?予想もつかないですけど、少なくとも自分とは何者なのか、自分と世界との、あるいは社会との関係性とはどういうものなのか。そういうものを考えていくことは人間として逃れられないテーマであることはずっと変わらないのではないかと思っています。